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ギター趣味人

1000-03-033-3 練習について

本節は「練習」について綴ってみる。


「そもそも練習とは?」

というところから、いろいろ意見があるだろう。

ということで、これも”自分なりの”

練習についての考えだ。


■ 趣味ギター演奏は練習か?

自分は趣味として、夜寝る前に、大体30分くらい

ギターを弾くことを日課にしている。

サイレントギターでTAB譜をみながら、好きな曲を弾く。


これは練習なのだろうか・・・。  


自分気持ちとしては、

完全に趣味楽しみであって、

「練習」ではない。

練習というのは、

「弾けないところを弾けるように」

目的として、懸命に努力しているようなイメージがある。  

そんな気持ちは持たずに弾いているので、

本当に「趣味ギター」といった感じだ。

 

しかし、

「ただ単純に楽しむだけ」

というわけではない。

それではさすがに飽きてしまう。  

弾ける曲だけでなく、弾けない曲を

弾けるようになりたいと思って弾くし、

弾ける曲でも、

メロディーをもっと歌わせようとか、

リズムの取り方を変えてみようとか、

いろいろ考えて実行している。


「昨日よりいい演奏したい」

という気持ちはいつも持っている。  


多少なりとも技術向上に目を向けて弾くと

いうことが練習ということであれば、

練習といっていいものなのかもしれない。



■ つまらない練習と頭でっかちな演奏  

でも、自分は”練習”という言葉に対して、

あんまりいいイメージを持っていない。

2つの理由がある。  


1つは、自分は音楽というものは

勉強として取組むというよりは、

感性で取組みたいと思っている。


誤解されないように断っておくが、

自分は勉強、特に自分から進んでやる勉強

実に楽しいものだと思っている。

だから、勉強として取組むことは

全くもってOKと思っている。


でも

「演奏をする」というときの頭の使い方としては、

理論理屈でによってではなく、

感性に従って弾きたいという気持ちがあるのだ。


音楽を演奏するにあたって、理論というのは、

すごく大事だし、便利だしと思っている。


しかし、頭で覚えている音使い、

例えば「ペンタトニックの使い方」とか

「○○モード奏法」とかそれを学問みたいにやって、

それを出すことを目的としてしまうのは、

自分の音楽の捉え方ではない。


あくまで、感性が先にあって、

その感性をより使いやすくしたり、

理解しやすくしたりするために

理論がある。

音楽は、「頭より耳が先にある」べきだ。  


そういう考えでいきたい。


ジャズ先生に習いにいって、

「どうやったらいいアドリブができますか?」

という質問をする方もいると思う。  

自分は先生音楽について本当に真摯に取り組んでいるとすれば、

「知らない」

と答えるのが誠意のある答だろうと思う。

もしくは、

「かっこいいと思うように弾くのがいい」

とかだろうか。


「この部分のコードは」

とか、一部を具体的に教える

ことはできる。しかし、数学のように

「これを弾いたら正解」

なんてことはない。

というか、そうした考えだと、

「いつも同じ演奏」

となりそうだ。

それは楽しい音楽になるのだろうか。  


音楽は、何か心のなかのエモーショナルなところ

からでてくるべきで、

「頭で理解した」方法論をそのまま出してもつまらない。

 

もちろん、どんな人でも

完全に無から音楽を生み出すことはできない。

必ず先人の真似からだろう。

でも、そのスタート地点は、

音という感覚、感性からであるべきだ。


方法論として、理論からスタートするというアイディアはある。

でも、そのケースでもそれを音として聴いて

「いい(面白い)音楽だ」と感じてこそ音楽だ。

■ テクニック主義

この流れと同じと思うが、

技術のみ、アスリートみたいな音楽がある。  


それらは、ものすごいテクニカルな鍛錬の上

になりたっていることがわかる。

でも、自分には”冷たい”と感じてしまう音楽が少なくない。

(もちろん、すごくかっこいいと思うものもあるが)

 

複雑なコードチェンジと、それにずばりあった音を選んだ

アドリブ演奏を決めまくる音楽や、

最初から最後までものすごいスピード音楽

というのもあってもいい。

でも、そこに音楽的な感性感動といったものがなければ、

それは音楽というよりはむしろスポーツや、

反射神経のテストみたいになってしまうのではなかろうか・・・・。

(それはそれで、純粋に芸として面白くもあるが・・・)




■ 新鮮さ・練習の功罪  

もう一つ”練習”という言葉があまり好きでないのは、

練習が新鮮さをなくす結果に繋がるケースがあるためだ。

2章4節で書いたパットメセニーの言葉にある。繰り返しなるが、

もう一度記載しよう。

/////////////////////////////////////////////////  

ツアー中は、本番以外、敢えてギターを触らないようにしている。

そのほうが、いいフレーズがでやすいんだ」(パットメセニー談)

超一流のプロの言葉なので、自分とは次元の違う話なのだろうが、

考えてみると、「練習」っていうのは、ある決まったフレーズを繰り返し弾くことが多い。

できないことをできるようにしようとするのだから、当たり前だろう。

しかし、ジャズみたいな音楽にとっては、

「練習によって同じフレーズがでやすくなってしまうこと」

は、マイナスなのかもしれない。

おそらく一番いやなのは「マンネリ」で、自分の演奏が自分で退屈になることだ。

 

そう考えると、プロは大変だ。  

演奏ツアーでは、お客さんの前で演奏するわけだが、

お客さんは『その人ならではの演奏』を聴きにくる。

簡単にいうと、「CDで聴きなれたあの音」もしくは、

それ以上の演奏が期待される。


ということは、同じようなフレーズを期待されているということに近い。

即興演奏であるジャズでも、その人ならではの語法・節回しを聴かせる、

という意味では変わらない。  

確かに、「本番以外弾かない」というのも、

そのときのパットメセニーのようなジャズプレイヤーで、

自分らしさを保ちながら、合わせて自分自身にも新鮮な気持ちを保つという意味では、

有効な方法だったのだろう。  

ある意味ギターが下手で、ちょっとずつ、

うまくなっていく過程が楽しめてるアマチュアギター弾きは、

すごく高度な技術の曲を弾いているが、

毎日同じ曲で退屈してしまっているプロよりは幸せだと思う。

(その方をプロと認めるか?という違った視点の議論もあるだろうが・・・)

もちろん、下手ゆえ、弾けるフレーズが限られてしまい、

行き詰ってしまうという方向の「退屈」から、

如何に逃れるかということに苦労しているというのが、

普通の自分の姿であり、普通のアマチュアなのだろうなと思う。

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以上2-4から。  


2-4では、これを休み効用意味といったところから、

言及しているのだが、その反対側の”練習”といった意味からみても、

面白い見方ができると思う。


というか、本来そっちからの言及であろう。

 

練習とはどうあるべきか?

といったことをこのような視点から考えてみると、

練習といっても技術的な練習も大事だが、

新鮮さをいかに保つかといった違った視点の練習、

いや、訓練・・・やり方・・・いい言い方が見つからないが、

そんなことを考慮に入れておくのは大事なことと思う。  


楽しいと感じるのは、少しでも演奏に新鮮さを感じるからだ。

ということは、自分がその演奏に飽きていないということだ。

そしてそれはちょっとずつかもしれないが、進歩しているというころだろう。


そうしてみると「楽しむ」ことがまず第一

ということか。



■ 達人が練習すると…  

さて、以上ずいぶん練習について、

否定的な感じに書いてきてしまった気がする。

しかし、練習はやはり裏切らない。大事だ。

それも、書いておこう。


先述のパットメセニーの

ツアー中はあえて練習しないようにしている」

という記事を目にしたのは、まだ自分が大学生

ころではと思うが、実は、その後、

現在ステージ前に必ず練習しているんだ」

という記事を目にもした。


パットメセニーの

 「スティル ライフ」とか、「ウィ リブ ヒア」

 くらいの記事だったと思うが、正確に覚えていない。)


「達人が練習しちゃうとこうなっちゃうんだ・・・」

ということを文字で書けてしまうくらい

とんでもなくうまい。というか、

うまいを通り越して演奏技術的にすごい演奏になっている。

速さとか単純なものではなくて、表現としてすごい。  

「神がかり的なうまさ」

になったと自分は感じている。

プロのギタリストでも同感の方がいて、

ジャズギタリストの矢堀孝一氏が、

「布川俊樹氏いわく、”弦楽器奏者としてはパガニーニ以来の奇跡”と評していた」

と絶賛していたのを読んだことがある。  


やはり練習は裏切らない。



■ Take it easy but take it!  

ジョンマクラフリン、パコデルシア、ディメオラのスーパーギタートリオ

若くして天才的に上手な村治佳織なんかの演奏を聴くと、

絶対に自分では到達できないであろうレベルだなと思う。


高校生のころ、山下和仁の「展覧会の絵」を聴いた時、

こんな人が世にいるのであれば、

自分は一生人前で弾くことはないだろう、

(必要ないし、この人よりうまく弾けることは無いだろう)

と思った。


でも、その後、長い期間ギターを弾いていて、

考えは変わっている。


その人なりの演奏ができれば、

その音楽には魂が入る。

そしてそんな音楽技術を通り越して、

心に迫ってくるものだ。



自分にとって練習とは?


できることはできる。

できないことはできない。

でも、表現したいものはしたい。

自分が楽しんで、

その楽しさを伝えたいという気持ちで弾くことが、

自分にとっての練習ということにしよう。